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駄目な奴

真理を求めないようになって、僕に何が残ったかと言うと、
僕はクズだなということ。僕は本当にクズだったんだな。
ずっと一人前になりたかったし、そうなろうとしてきたし、
そうなれない自分を恥じたり隠したりしてきたけど、
事実として、僕は駄目な奴だったんだな。

一人前になりさえすれば、今問題となっているあれやこれだって解決できる。
だからそうなるんだとずっと頑張ってきたけど、
結局一人前になったとしても、そんなものは死ねば消える。
解決した問題もできなかった問題も、死ねば消える。その程度のものだったのだ。

何とかなりさえすれば、と努力することによって免罪符を得ていたのだ。
今は駄目だがいずれ何とかする、と思うことで今を肯定しようとしていたのだ。
本当はただできないという事実があるだけなのに。
現実をありのまま受け入れられないから無理に肯定する必要があった。

が、現実は、僕はしょうもないやつで、しょうもない人生を送っているのだということ。失敗だらけ。
浮かび上がってくるのは間抜けな自分。ああ、僕は間抜けなんだな。

僕としてはどちらかというとプラスの意味で書いているこの文章も、
普通に読んだらかなりマイナスなものと受け取られてしまうのだろうなと思うとちょっと怖い(笑)
真理にすがるのをやめたら、僕の人生に何が残る。何にも急かされなくなったら何が残る。
何かを目指して生き、何かに願いをかけて生きる、そういうものを取り去ってしまったら、
人生何が残る。
ただただ愚鈍な自分。愚鈍ながらも生きている自分。
ただただ情けない自分だけが残る。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/18 22:10

弱虫

・苦しい、というのを受け入れてしまっている。
苦しいというのを飲み込んだ上で、どうすれば楽になれるか、と。
「苦しい」という言葉が出てこない。そのおかしさ。異常さ。
当たり前のこととして受け入れている。
叫んでも良かったのだ。ちくしょう!と。
なのに当たり前のことにしている。
主体性のなさ。
現実から一歩引いて生きている。
諦めている。自分の人生を生きるということを。
生きるということさえ「合わせている」。
仕方なく生きているだけ。
自分の人生だという実感がない。
そういう時期もあったがもう手離してしまった。
とても敵わぬ敵に出会ってすっかり魂が委縮してしまった。

・罪悪感、責任感。責任感の強い人はうつになりやすいと聞いたことがあるが、
それはわかる気がする。
責任感という名の弱さ。
あまりにも「人間的な」情。
罪悪感も責任感も“飲み込み系”だ。
主体性の放棄。
行きつくところまで行くと、「自分が消えれば」となる。
「知ったこっちゃねぇ!」と叫ぶ自由もあるのだ。
そこに精神が輝くのだ。
別に滅茶苦茶やっても良かったのだ。
人を殴ろうとも。犯罪を犯そうとも。悪人になろうとも。
「そんなもの知ったこっちゃねぇ!お前らにとやかく言われる覚えはねぇ!」
そう言う自由はあったのだ。
それをまた忘れていた。

・生きることが罰になっている。
死ぬと罰から逃げたことになる。だから生きている。とも言える。
ちゃんと罰を受けています。甘んじて受けています。
誰も笑って生きてなどいません。ちゃんと苦しんでいます。
毎日毎日死にたいと思いながら、「それでも」ではななく、「だからこそ」、生きています。
死にたいからこそ、苦しいからこそ、罰として死なずに生きています。
こんな人のどこに主体性があるだろうか。自分の人生という意識があるだろうか。
僕はちゃんと苦しんでいます。見て下さい。
ほら、僕はこんなにも可哀想な人間ですよ。
こんなにも惨めな人間ですよ。
まったく哀れですね。自分で自分の人生を滅茶苦茶にしている。
ちゃんと自分で自分を罰していますでしょう。
という誰に対してかもわからないアピール。
結局はそうやって身を守ろうとしている。
身を傷つけることが守ることになっている。
でもそれは弱い者のとる手段だ。
苦しみを飲み込んでしまった者の。魂の委縮してしまった者の。
まるで亡霊のようだ。
人間であることを忘れてしまっていた。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/08 22:59

知れてしまっている

知れてしまっている。
知らないからワクワクできる。
知ってしまうとワクワクできない。

子どもの頃、早く大人になりたかった。
漠然とした大人への憧れ。
未知の世界。
探検・冒険感覚。
自分の世界を切り拓いていく。

でも、大人と言われる年齢になってみると、なんだこんなものか、という感じだった。
子どもの世界と何も変わらない。
自分を待ちうけている輝かしい未来があると思っていた。
これから何でも自分を待っているものがあると。
でも、あと待っているのは死だけだった。

人生というのは進めば進むほど開いていくものだとずっと思っていた。
でも、それが死という一点に向かって閉じていっていたのだと気付いた時、
人生観が根底から覆った。
これから楽しいこともいっぱいあるだろう、もちろん辛いこともある、
でもそれら含めて人生じゃないか、面白いじゃないか、そう思っていたけど、
でも、そんなことをやりつつもどうせ死ぬのだと思ったときの虚無感。

先が知れてしまったのだ。
楽しいことをする、辛い思いもする、幸せで満ち足りるときもあるだろう。そして死ぬ。
これから自分に起こることが知れてしまった。
色んな思いをして生きて、最後には死がある。
その経路が知れてしまった。
知れてしまうともう楽しめない。
知っているから。
知らないからワクワクできる。
何を見ても、どこかで見たことがあるようなものに見える。
見たことがなくてもいずれどこかでまた見るだろうものに見える。
何を見ても知れてしまっている。
新しい何か、がない。

不思議だ。
この世のすべてをみたわけではないのに、すべてを知った気になっている。
きっと、「あとは死ぬだけだ」との思いからだろう。
なんやかんや言っても、最後は死ぬ。
それは誰もが同じ。
そこが知れてしまっては、それまでのどんなことも大したイベントには感じられない。

この「知れてしまっている」との思いが世界を味気ないものに感じさせる。
それがなければ世界は楽しいものとなるだろう。
すべてを知らなければ、すべてが外からもたらされるものであれば、
かえって人生は楽しいものとなるだろう。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/03 22:08

雑談

・ずっと母親から逃げている。母親というより、「母親的なもの」か。
自分を呑み込んで無に帰してしまう恐ろしいもの。
ずっとそれから逃げている。
せっかく「自分」になったのに呑み込まれてたまるかと。
またあの混沌の中に霧散してたまるかと。
甘やかされると溶けてしまう。
だから厳しさを求めた。
甘えの入り込む隙など与えずに。
それは父を求めての旅。
父を追いかけ、母から逃げる旅。

・「死ぬ前に」って死ぬのを自分の所有物にしてる。
「いつ死ぬか」、それは自分を超えている。
「このままでは死にきれない」ってまるで自分の力で生きているかのようじゃないか。


・不思議なことに、「虚無」ということの中には、
「全て」が知れてしまっているということが含まれている。
無なのに、全て。
知れてしまっているから虚しいのだ。
どこに手を伸ばしてもきっと何も掴めない。
なぜなら対象がないから。
いや単に対象がないだけならまだいい。
手を伸ばそうとするところの、自分がいないのだ。
だから何をどうあがいたところできっと何も掴めない。
あがくと名づけられるような粛然とした行為さえ起こらない。
と知れてしまっているのだ。
手を伸ばす自分の非を悟ってしまっているのだ。
その閉塞感。
だが、手を伸ばす力が弱くなっているわけではない。
「無い」という打ち消しの力が働いて伸ばす力を相殺しているのだ。
感情は滞りなく発散するべきだ。
相反する力との衝突のために発散できなかったエネルギーがどれだけ身体に害を及ぼすか。
「あってほしい」それなのに突きつけられてくる「ない」(という思い)。

国語の問題を算数の問題として解こうとするようなものだ。
計算の中身が間違っているのならまだいい。
頑張り次第で訂正も可能。
だが、計算すること自体が間違っているとき(国語の問題なのだから)、
そして自分にはその選択肢しか用意されていないと知れたとき、もはや為す術はない。
為す術はないが、それ(計算)をしてしまう自分を冷静に見ている自分もいる。
その苦しさ。
間違っているとわかっていて間違っていかざるを得ない苦しさ。
何にも触れられないのはわかっているのに手を振り回さねばならない苦しさ。
そんなぬめっとした、空気の重い世界。
しかし、手を振り回すのに疲れ、それをやめてしまったときにだけわかる、
手を振りまわさなければ掴むもの何でもある、ということ。
「ない」としたそのすべてが掴み得るものだったということ。
でも間違っているとわかっていて間違うことなどできるのだろうかとふと思う。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/22 21:01

タイトル付け難い

毎度毎度思うことだが、
「もう死のう」と思うとおかしなことに気持ちが楽になる。
楽になれそうもないから死のうと決めるのだが、
そう決めると、狙ってないのに楽になる。
そして気付く。
あまりにも生きようとしすぎていたのだと。
「生きねばならない」
その思い込みのゆえにもう生きられなくなっていたのだと。

あまりにも重いものを背負っていたのだ。
それはとても背負い切れるものではなかった。
世界の全てなのだから。
世界は大きすぎる。
世界は「ありすぎる」。
僕はこんなにも重いものを自分の身体として生きていたのか。

背負えるものではないのだ。
背負えないから、既に全体を背負えているのだ。
背負えるものではない。だから背負うことができる。
「こんなものは自分ではない」。だからこそそれが自分になるのだ。

無が怖かった。
ペンを無くすのは怖くない。靴を無くすのも怖くない。
他にも何でも、持ち物を無くすのは怖くない。
本当に怖いのは自分の立っている場所を無くすことだ。
全財産でも、住む所でも、社会的地位でも、大切な人でも、
それを無くすのが怖いのは、それらが自分の持ち物だからというのではない。
「この世界への信頼」が無くなってしまうから怖いのだ。
「自分に限ってそんなことは起こり得ない」
その信仰を打ち砕くのが「無」だ。
「この世界に秩序はないのではないか」
「この世界は無慈悲で無情なものなのではないか」
「自分が何をしようとしていなかろうと、
そんなことと世界とは何のリンクもないのではないか」

それが怖かった。
だから逃げた。必死で逃げた。
生きたい。生きたい。
そうしてもう何十回目か、もうそれ以上は走れなくなった。
それで諦めてもう終わりにすることにした。

世界は違って見えた。
どうせもう死ぬのだから何も恥ずかしがることはないか、と。
些細なことなんてどうでもよくなった。どうせこれから死ぬのだから。
でも、これも何回目か、ふと気が付いた。
死のうと決心しようとしなかろうと、どうせ死ぬということに何も変わりはないのだと。
死のうとした人にだけ死がくるのではない。
生きたいと願う人もどうせ死ぬのだ。
「生きたい」と願っている間は「死は来ない」とどこかで思い込んでいる。
それが、決して失いたくないとする「世界への信仰」。
生きたいと逃げている間、死は観念上のものにすり替えられるのだ。
だがそんなことをやっているその人もその内死ぬのだ。現実問題として。

自分はどれだけ生きようと走り続けてきたか。

だが、

死ぬのだ。

ほんの束の間でも夢が破れたときに気付く。
自分がどれだけ生の亡者であったかと。
自分がどれだけ決して背負えるものでないものを背負おうとしている者であったかと。

無が怖い。
でも世界は「有りすぎる」。
とてもこの手では掴み取れないくらい。
とても背負えるものではないくらい。
そうとわかれば、無とは全てのことだったのだ。

この肩で担える責任なんてたかがしれている。
すべてのことに対する責任なんてとれるわけがない。
そんな無理なことをやろうとすると、いつか責任に押しつぶされてしまう。
だが、押しつぶされるから、全てを包むことができる。
背負う身体を無くしてしまえば全てが自分の身体となる。

未知のものは怖い。だからすべてを既知にしようとする。
でも、自分なんかにカバーできるものはたかがしれている。
この世界は自分にカバーできないもので溢れているのだ。
だが、そんなむなしい努力もやめてしまえば、
未知というのはそのまま自分の可能性と言い換えることができるのだ。

こんなことを言いつつまた夢を見始めている。
死ぬのを保留にし、やがてまた生きようとし始める。しなくていいのに。
そしてまたその内こける。
何のために走るのか。きっとこけるためだ。
こけて自分というものを思い知るために走るのだ。
でも、それに付き合ってられなくなって、そこに悪い運が重なったとき、
きっと僕は死ぬ。
つぶやき | コメント(8) | トラックバック(0) | 2014/07/20 18:17

間違い論

なんか、間違ってたな、と昨日思った。
最近の自分が。
苦しいときというのはどこかに無理があるということだし、
きっとまた間違っているんだろうなとは思いつつ、止まることができなかった。
本当に面倒なもので、人間はこけてしまうまで止まれないらしい。
あらゆる努力が走るために費やされる。
止まろうとする努力でさえも。

そんなこんなで、昨日になって、やっぱり間違ってたなと気付いた。
どこがどう、というよりも、姿勢が。
それで、昨日はわりと平和に過ごすことができた。
自分が平和でないときは世界までも平和でないように見えてしまう。
平和を実感できるのは1年間に数日しかないんじゃないか、とか思ってたけど、
確かに、今日はもうやや平和ではなくなっている。
また走り始めている。
だから、またその内、(数ヵ月後か?)こけることになる。
その繰り返し。
その過程をあえてここで披露することになるのだが、
間違いだけを披露しても申し訳ない。
だから、ここ最近間違えていましたと、一応申し添えておく。
そこまでで1セットだから。

ただ、これがまた自分を惑わせることになっていくのだろうとは思うが、
今後の自分のために一応書いておく。

やっぱり、自分を足場にしては駄目だな。
自分を超えたものに心を開かなくてはならない。
自分を足場にしていては自分を超えたものには出会えない。
結局「こける」ということが自分の外から与えられたものであるから、
そういう意味では大いに自分を足場にして結構なのだが、
それでも、方針としては、「駄目だ」。

どういうとき、「地獄」から「平和」へ移ることができたか。
どういうとき、「平和」からまた「地獄」へ流れて行ったか。
これは完全に、「自分を超えたものに心を開いたかどうか」が鍵になっている。
神にしても仏にしても、自分を基点にアプローチしていっても永遠にたどり着けない。
それゆえ何年も苦しかったのだ。
自分を離れることができれば、途端に世界が平和になる。

だが、簡単にその「離れ方」を忘れてしまう。
今も既に見失っている。
「その間違いを正そう」という気になっているのがその証拠だ。
本当は「間違って、こける」それでいいのだ。
だが、それをよくないことに感じている。
これが一つの指標になる。
もうちょっと言ってやれば、
「離れ方」にこだわろうとしている時点で、既に走りだしている。
「ああかな、こうかな」と。
本当は「ああでも、こうでもいい」のだろうに。
正解は経験上知っている。
だが、それが本当の正解として活きてくる瞬間がほとんどこない歯がゆさ。
いや、この歯がゆさも不純なものか。
また自己完結の世界に入っている。
本当は世界は平和なのに。

この段階でなら、まだ強引に「自分を離れる」考え方にシフトすることは可能だと思う。
ちょっとコツはつかんでるから。自分を操作していく。
だた、それをやるかどうかはちょっと微妙だな。
やっぱり神棚とかお内仏があるのが一番いいのかもしれない。
シャンとする瞬間。シャンとする場所。
自分でシャンとしようとすればするほどできなくなるから。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/13 22:47

普通の意識状態では言えないです。

*頭の中。
多分、何言ってるかわからないと思います。
自分でも何言ってるかわかりませんから。
ちょっと精神病チックなこと言ってます。
結構そういうラインを狙っていますので。
狙うと言うのも何か変ですが。


考えねばならん、と。
考えねば成り立たんのだ。一日が。
解決に向けて何とかしていると。
もっと言えば、何かしていると思わねば成り立たんのだ。
自我が死に瀕しているから?
怖いと思ってるから?
死を怖いと思えば思うほど切羽詰まる?

言うたら自明性の闘いか。
「普通」と思うべきものが「普通」と思えなくなる。
なぜ生きるのか、当然だから。
なぜ働くのか、当然だから。
「当然」が「当然」でなくなった。
それは自我の危機。
そこで自我が取った対策は、再び当然だと思うことではなく、
「それを考え抜く」ということ。
課題を作ることによって自我を補強。
「課題を背負う自分」になる。
しなければならないことを作り出すことによって自分を保つ。
無に溶けてしまわないように。

確かに自我は常に動いていないと己を維持できない。
だが自我とは僕のことだなのだ。
なぜ僕は僕を超えたものについて語ろうとする。
僕には自我であるしか、つまり100%僕であるしかないのではないか。
いや、ちょっと待て。
「しかない」とはなんだ。
なぜまた切羽詰まろうとしている。
また急かされている。
エスカレーターに乗せられたよう。

こんなにも進まねば不安なのか。
なぜこんなに走りたがる。
多分、今の僕は人より走りに急かされている。
追い詰められたから?
それは確かにそうだ。
だが追い詰められたから、逃げるために走っているわけではない。
そんな後手ではない。
明らかにもっと狡猾な悪だくみ。
自我が死に瀕したから補強?
いやそんなんじゃない。
それすらも演出じゃないのか?
追い詰めたのは誰だ。
どこからどこまでが僕自身による演出?
どこからどこまでが僕?
いや、ちょっと待て、本当にそんな問いが「僕」に可能なのか?
この一連の言葉の中で「僕」はどうなってる。
誰の意志だ。誰の目的だ。
この一連の言葉の中で僕は確かに立っているが、しかし立っていない。
立っていないのに言葉を話す。
なぜ。
僕には僕の限界を知ることはできない。
僕という視点を外すことはできない。
僕には僕に背くことはできない。
なのになぜ背いている。
誰の意志だ。
僕は今僕には決してできないことをやっている。

他人じゃない?
でも僕ではない。
いや、僕ではないことなどあり得ない。
僕とはなんだ。
僕はやっぱり立っていないぞ。
立っていないのに確かに僕であるとはどういうことだ。
僕の主役は僕であるはずなのに僕ではない。
僕ではないが他人でもない。
他人でもないが僕でもない。
これが言葉の限界というやつか?
僕の持ち物やあるいは僕の一部に対してなら「これは幻だ」と言うことはできる。
だが、僕の口から「僕そのものが幻だ」という言葉が出てくるはずがない。
なら誰の言葉だ。
つぶやき | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/09 21:16

確認

怖い。怖い!
世界が崩れるのが。
怖い!怖い!怖い!
やめて!これ以上もう何も奪わないで!

昨晩急にそんな気分に襲われた。
あの気持ちをずっと隠してきたんだ。
ずっと克服しようとしてきたんだ。
あれのない自分になろうとしてきたんだ。

ずっとそれを問題にしていながら、ずっとそれを見ないでおこうとしてきた。

多分、あれが強烈に来すぎてしまったら精神病になるんだろう。
自我がストッパーになれずに。
そうかと言って自我がのさばりすぎても気分は晴れない。

自分はずっと何を隠そうとしてきたか。
改めて確認。
つぶやき | コメント(8) | トラックバック(0) | 2014/07/06 16:06
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