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奴隷のススメ

おそらく今の僕に一番必要な言葉。
「自分の殻から抜け出せ」。

殻に閉じこもっていることはわかっている。
し、「殻」と認識している以上、当然出たいと思っている。
だいたい、「殻」という表現は悪い意味で使われるから。
でも、出られない。

どれだけあがいても、殻、枠、壁に触れない。
その覆っているものに触ったことはないのだが、
自分が何らかの空間の中に閉じこもっていることはわかっている。
せめて触れたらそれを手掛かりに踏ん張ったりもできるのだが、
触れない以上、何をしても空振りに終わり、やがて萎える。

萎えると言っても、萎えっぱなしではない。
人間の身体はどこまでも生きよう生きようとするから、
そのうちまた気力が充実してくる。
が、それをぶつける先がないから(触れないとは対象がないということ)、
発散できなかった生命力が内向して身体を傷つける。

この鬱々とした感じ。
自分のことを言っているのだが、これは「現代の特徴」と言ってもいいと思ってる。
現代で何が問題となっているかを挙げて、
その上位のほとんどはこれに関係してるとさえ思ってる。
まあ、僕がランク付けするわけだが。

みんな出たいのだ。殻から。
「昔はよかった」のは、昔はエネルギーを流す対象があったからだ。
吐き出し口がなければエネルギーは鬱滞する。
鬱滞が続くようなら、やがて作りだされるエネルギー量自体が減少する。
生きる力をなくしてしまう。

草花でいうと、根が枯れてしまうというところだろうか。
土から栄養を吸収できなくなる。
栄養がなければ、伸びんとする力も湧いてこない。
草も人間も同じ。

栄養とは味。
人間も根が枯れると何物の味も感じなくなる。
何を食べても味気なく感じるようになる。
「適量の栄養素を摂りなさい」とか皆言うが、僕はそんな信仰は持たない。
どんなに栄養を摂っても、味を感じなければ健康であれるはずがない。
栄養素が人を生かすのではなく、味が人を生かすからだ。

人は物質によって生かされるのではない。
己の精神によって生きるのだ。
己の生きんとする力を生みだすために食らうのだ。
食らうから味を感じる。
摂っていても味は感じない。それではただ生かされるだけの人形。

味はどこに存在するか。己で食らうところにある。積極性の中にある。
この主体性を手離してはいけない。
が、生きていると段々消極的、受動的になってくる。
色んなものを気にし、色んなものに合わせるようになる。
色んな価値、良い悪い、そんなものを気にするようになって、身動きが取りにくくなる。
人が決めた良い悪い、人が決めそうな良い悪い、そんなものに合わせるようになって、
つまり「人間らしく」なることによって、生きんとする一個の生命ではなくなってしまう。
何が己が生命力を妨げたか。何がその力を押さえつけたか。
己が観念だ。それを指して「自分の殻」という。

何が正しく何が間違っているか。何に価値があり何に価値がないか。
そんなものに答えはない。
答えがないからずっと殻から出られない。壁に触れない。
触れないからイライラする。触りたい分だけイライラする。その気持ちの分だけイライラする。
触れなかった経験を重ねると段々触りたいと思うこと自体を諦めるようになる。
経験を重ねなくても、「絶対の正解なんて自分にわかるものではない」と
皆どこかでわかっているから、段々あがく手が重たくなってくる。
本気であがくことができなくなってくる。
イライラの及ぼす身体への害が許容量を超えると気持ち自体を抑える方にシフトする。
そして生まれるのが無気力人間(僕)。

価値など自分で作っていくものだ。
己を操っていくような、己を主導するような価値など本末転倒。
あくまでもこちらが主体。
良いか悪いかは自分で決める。
というか皆それぞれ好き勝手に決めている。
その決めた価値を「自分由来」と思えるかどうかが肝要。
皆「普遍的な価値」を求めるから殻に閉じこもることになり、やがて鬱になる。
「人と人とがわかり合う、通じ合う」を目指す人が
実は自分の殻に閉じこもっているのだという皮肉。

なぜ誰もが納得する言語を話そうとするのか。
それは裏を返せば、「自分」ではいられない弱さの表れではないのか。
人からの保証なしでは自分ではいられないという弱さではないのか。
だがそれをここで断罪するなら、それはただの「価値」の奴隷。
「正しさ」の奴隷は「弱者」を切り捨てることを生きがいとする。
「弱さ」とは何か。何を「弱い」と言うか。「自分は」何を「弱い」と言うか。宣言するか。
また、何を「良い」と言うか。何のために言うか。言ってどうするか。
これは決していわゆる精神論ではないし理想の話でもない。
「意志」の話をしているが精神論ではない。
「こうするべき」といっているが、理想を語っているのでもない。
それらは奴隷のススメだから、むしろそれとは反対のことを言っている。
そうかと言って、「これは完全に僕の価値観だから気にしないで下さい」と言うのでもない。
むしろ僕の価値観なのは当たり前なのだから。
その辺の説明が難しい。


何を書くか決めないままダラダラ書いてたら意外と長くなった。
後半ちょっとニーチェを意識した。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/26 23:46

二つの問題

苦しみとは何か。
何なのだろう。

生きるのが辛いと。
辛いと感じさせるものがある。
そういうとき人は当然それから脱しようとする。
原因を排除したり、こちらが変わったり。
辛いから頑張る。辛いのは嫌だから。

でも、別の問題として、「どうせ死ぬ」という問題もある。
生きるのが辛い、だから何とかして辛い思いをしないで生きたい。
そのために頑張る。頑張って生きる。
自分に鞭打ったり、良い暗示をかけてみたり、気分転換したり、
元気になれるものに近づいてみたり、「生きる」テクニックは色々ある。

でも、それとは別に、「どうせ死ぬ」という問題がある。
「頑張って生きる」けど、「どうせ死ぬ」。
生きたいがためにああだこうだと試行錯誤し、問題の解決を図る。
だが、そんな奮闘をしている自分が死ぬという問題が別にある。
前者は「自身の抱える問題」、後者は「問題の中に収め取られている自身」。
前者は持ち物。後者は所属。
持ち物に問題がある場合、満足を得る方法はいくらでもある。
だが、その満足を追い求めている自分の所属が曖昧であるというのは、きついことだ。

これはただ整理のために書いているので、今は希望のあることはあまり言えない。
ただ、ここで言っている「後者」は極めて主観的な問題だということは言えそうだ。
主観的。だから考えないのが勝ち。
でも、僕がそうだからよくわかるが、「後者」のような人には絶対にこの言葉は通じない。
むしろ、忌避される。
でも、結局落ち着くとしたら、一周まわってそういうところだろうと思う。
考えるなとは言わない。言われたところでやめられないのもわかっている。
でも、落ち着くところはきっとこういうところだろうと思う。
僕はまだその途中だが、そんな風に思う。

やっぱり人は、より良く生きるべきなのだ。
なぜか。
そう決めたから。それを良しとすると。
善悪正邪の基準を定めたからあらゆることの価値を測ることができる。
何がプラスで何がマイナスか。
それは自分の基準次第。
その基準を定めるのは間違いなく主観。任意。
でも、必ず、人はその任意の決断に落ち着くものと思う。

高い視点に立って見てみれば、
客観や真実にこだわりすぎて主観に立てなかった人が、
「後者」の問題にからめとられることによって、
やがて主観に立てるようになって帰ってくる、
と言えると思う。
要は、「自分である」ことができるようになるのだ。
絶対も普遍も神も、そんなものに頼ることなく。
自分だから、自分でいい、と。
正しいか正しくないかは自分で決める。

これは完全な無神論者のようにも見えるがそうではない。
この人にとって神はどこにいるか。
「誰もが必ず主観に帰ってくる」というそこにいる。
どういう道を歩んでも、人は必ずそこへ向かって進んでいく。
そういう風になっている、という設計者という意味での神。

もう一つは、完全に主観でいられるということが、
すべてが他から与えられているものだ、というところに立たねば不可能だというところ。
100%の主観は100パーセントの客観に立たないと無理。逆もまたしかり。
その辺の説明は今の僕にはまだ無理。

すべてが神から与えられているという完全な受動と、
すべては自分の選択であるとの完全な能動が、
同じ事態をそれぞれの方面から見たものであると言えるようになったとき、
人は必ず「より良く生きる」を旨として生きることを決めると思う。
そこで、「前者」と言っていた問題、つまり生きる上での様々な困難、に対して、
被害者としてではなく、自ら積極的に参加していくことになる。
その上で、自己暗示だったり気分転換などのテクニックが必要になってくる。
なぜそうするのか。なぜそうして生きるのか。と問われれば、
「そう決めたから」。
でもそれは自分が勝手に決めたのではなく、ある種の必然。
決断したのは自分だが、その決断は必然でもある。
という構図。

僕自身のことで言えば、僕はずっと「どう生きるか」ではなく「なぜ生きるか」を
問題としてきた。
どう生きるかなんてどうでもいい。
それは「生きる」と決めた後の話だ。
生きると決めたなら生きるにあたっての問題もあるだろう。
でも、僕は生きると決めたわけではない。まだ生きるということに納得した覚えはない!
という感じだったが、結局一周まわると、
「どう生きるか」こそが問題になると思う。
「なぜ生きるか」は「不安定で堪らない!」という訴えに言いかえることもできるだろう。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/14 23:08

道徳の授業

小学校で道徳を教えるべきか、また教えるとすればどう教えればいいのか、
ということが問題になっていると聞いたような。
(言ってなかったっけ?)
でも、こんなことは簡単なことで、道徳は教えるべきだ。
というのが僕の意見。そんなのは当たり前のことだ。

そういえば、小学生当時は道徳の授業は嫌いだった。
何を勉強しているのかもはっきりしないし、それ以前に、「あの雰囲気」が嫌だった。
皆で先生の周りに集まり、それを抱えた先生が、「みんな良い子です」というような。
僕は親に対しても先生に対しても、誰よりも「良い子ちゃん」だったけど、
だからこそ、そんな自分が嫌だというのもあって、余計に道徳の授業が嫌だったのだと思う。

道徳の授業に限らず、よく大人は子どもに向かって
「良いことをしてもらったらありがとうと言おう」と教える。
まったくその通りだと思う。
だが、果たして大人が上から言えることか。
むしろありがとうと言うべき場面でありがとうと言えないのは大人の方ではないか。
子どもは余計なことを考えずにありがとうと言う。
そんなことは大人に教えてもらわなくても言う。
むしろ大人に教えてもらって大人の仲間入りをしていくと言えなくなる。

果たして道徳とは大人が子どもに教えるべきものなのか。
何を教えるべきで、何を教わるべきか、その辺りをもうちょっと整理しないと。
道徳は必要か必要でないかなどと、道徳をあまり知らない人たちが
どれだけ議論をしたところで、そんな答えはただのヤジロベー。

なぜ大人は子どもに道徳を教えるべきか。
それは道徳が人間にとって最も大切なものであるから。
最も人間らしいものであるから。
人間は獣でも機械でもない。
だが教えると言っても、ないものを新たに植え付けるわけではない。
生まれたときからあるそれのことを、「それは大切なものなんだよ」と教えるのだ。
大切だとわからなくなったら世の中どうなることか。
それを避けるために教えるのだ。
そういうことに思い及ぶようになった者の責任として教えるのだ。

だから、ありがとうと言えと教えるのではなくて、
ありがとうと伝えたくなる、その心が何よりも大切なのだと教えるのだ。
そしてできるなら、我々大人も道徳を学ぶ一人の人間として今あなたの目の前にいるのだと。
決して、道徳マスターだからその秘訣を授けようというのではなくて、
道を踏み外さないように、己の一番大切なところを見失わないように、
と願う一人の人間として在りたいものだ。

別に不良生徒になろうと人を傷つけようと、そんなことはどうでもいいのだ。
「それは悪いことだ!」、そんなことは言われなくてもわかっている。
わかっていることを念を押してあげるために「それは悪いことだ」と言うのだ。
子どもは白紙でもなんでもない。
大人が善悪の基準を押し付けて「良識ある人間」に仕立て上げているのでは決してない。
むしろ子どもの方が善悪を見抜く目は持っている。
大人は「こういう見方もできるしああいう見方もできる・・・」とか考えるから見えなくなるのだ。
どんな罪を犯そうと、「お前は人間であることを決して忘れるな。忘れてくれるな」と
それを社会全体で説くのが本当の道徳の授業ではないか。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/28 13:22

自分一杯に手を伸ばす

ワガママとノビノビの違い。
どっちも自我を大きくすることのように思える。

我が儘は自分の輪郭、世界との接触面が分厚いイメージ。
自分の皮が厚い。
常にけんか腰のイメージ。
呼吸で言うと吸う息にばかり気が行っている。膨らむ肺。
「自分ですけど、何か?」というイメージ。

それに対して伸び伸びのイメージ。
ムラのないイメージ。
我が儘は世界との接触面の密度が濃いが、
伸び伸びはどこの密度も同じでムラがない。
力一杯伸びをした後の「ふぅ」という脱力。あのイメージ。
力が均等に分散される。体の隅々にまで気が行き渡る。
緊張からの解放。
そう、我が儘からの解放が伸び伸び。
我が儘によって無理やり広げられていた自己の枠が、
緊張から解放されて伸び伸びすると、「自分の大きさ」に戻る。
自分の呼吸に戻る。それが自然体ということ。

自分より以上のものを求める人にとって「自分」という枠は
枷であり、煩わしいもの。
自分の枠に収まっていられる人にとって「自分」という枠は
温かく包み込んでくれる毛布のようなもの。

伸び伸びとは自分の外側に向かって手を伸ばすことではなく、
自分一杯に手を伸ばすこと。
それは自己にくつろぐということ。
自己にくつろげない人が自己の外に安心を求める。

ではどうしたら自己にくつろぐことができるのか。
神に許されたときに初めて自分は自分であってもいいと思えるのだろうか。
そんなことはない。
伸びをしたら自然と身体が脱力するように、
我が儘が過ぎればいつかつまずき、脱力することになる。
勝手にそうなるのだ。脱力しようとなどしなくとも。
そのことを知らない人間などいないだろう。
つまずいたことのない人間などいないのだから。
人はなぜ我が儘の限りを尽くすのか。
それは伸び伸びするためだ。
そのために生きてるとさえ思える。

自己の我が儘を無理やり矯め直そうとすることはない。
いつかこけるのだから。
その「流れ」を信頼すること。
矯め直そうとしようとも、しなくとも、無理のあるものはどうせいつかこけるのだから。
間違いを恐れることはない。間違いのあるものはどうせこけるのだから。
それでもなお自らを「正そう」とするなら、それは「申し訳程度」だ。
それは誰への言い訳?
誰の顔を窺っている?

無理のあるものは必ず倒れる。
人間に限らず世界のあらゆるものはそうなっている。
溜まった落ち葉によって塞き止められた小川の水は、
力を溜めると、やがて堰を破り再び流れ出す。
あるいは、重みに耐えかねしなった枝からドサッと落ちる雪。
その自然の美しさ。
その自然への信頼。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/06 20:44

実は僕は芸術家だったんです

最近、嘘を言わない、本音で話す、ということを考えている。
だから、そういう記事を書いてみた。
でもその言葉が嘘っぽかった。からボツ。
書きたいという衝動が湧いてからしばらく時間が経ったからかもしれない。
そういうときはどうも説明口調になる。
今もそういう衝動のないままに書いているわけだが。

そこで書きたかったっことを要約すると、
人間は主体性を失っている、だからもう一度それを取り戻さなければならない、
というようなこと。
まぁ、堅いですな(笑)

他にも、人生とは芸術活動である、創造活動である、ということを書いてみた。
これもボツ。
衝動のないまま書くとどうしても嘘くさくなる。
「自分の考え」を「誰か」あるいは「自分」に発表することになる。
この「モノ感」がたまらなく嫌だ。
モノの受け渡しはやめたいものだ。
つまりはそれが「嘘を言わない」ということになるのだが。

「相手」や「自分」を認めてしまうとどうしても物の交換になってしまう。
会話のキャッチボールというのがそう。ボールの交換。
それよりも、「叩けば響く」という世界の方がいい。
相手も自分も認めず、世界ありのままでありたい。
世界の中で世界の創造に参画したい。
そこに「外」も「内」も溶ける。
「受動」も「能動」も、「運命」も「意志」も。

世界は確かに美しい。でもそれだけでは芸術ではない。
人間を介して初めて芸術になる。
世界はいつも動いている。どんなときも活動を止めない。
でもそれだけではただの自己完結的な活動にすぎない。
それが人間を介することによって芸術となる。
一旦有限を経由することによって無限が無限を知る。
それが世界の意志。
それを人間の側からみると、
生きるとは芸術活動であり創造活動なのだ、ということになる。

常に何か創っている。巧拙係わらず。
皆芸術家なのだ。大半が「芸術センスに乏しい芸術家」であったとしても。
文字の芸術家であるところの書道家だけが字を書くわけではない。
字はみんなが書く。みんな下手な書道家。

結局、芸術的美とは何だろう。
まさか自分がこんなことを考えるようになるとは夢にも思わなかったが。
芸術的な美とは自然の美が人間を通して自然のまま現し直されたものではないか。
言いかえれば、人間臭さを極限まで排除した、
混じりっけのない自然の表現。
いかに自分の「変な癖」で自然の邪魔をしないか。
だから終わりがない。
削ぎ落とすことではあるが、それは自由になっていくことでもある。
大体、個性というのものは自分を縛るものだから。
「こういう人間」観念の中から出られなくなるし。

この間宮沢賢治を引用して、それから気になっていることがある。
それも書いてみたが、やっぱりボツ。
身の丈にあってないことを書くのはいいのだが、嘘をついた感には耐えられなかった。

まあ、大体こんなこと。
賢治のあの「素直さ」「純粋さ」はどこからくるのか。
単に心がきれいだから、という問題ではないだろう。
賢治は、僕で言うところの「嘘を言わない」を徹底して
試行錯誤しながらああいう文章を書いていたのではないか。
あの気取りのない自然さは、相当苦労しながら出していたものではないのか。
彼の何がすごいかというに、心がきれいとかそんなことじゃなくて、
自然ありのままを出すテクニックに長けていたところではないか。
相田みつをさんにしても、
あの気取らない文字を書くために何回も書き直しをしていると確か言っていたし。

おそらく芸術家にはそういう自覚があるのだろう。
歌手にしても、自然の風、空気の振動などのただの音を、
自分の身体を通すことによって芸術に高めている。
いい声というのはよく身体に響かせて出す声なのだろう。
身体に力みがあったりするといい声にならないと聞いたことがある。
いかに響きの邪魔をしないか。その精進の道。

今朝ふっと思ったのだが。「童心」のいかに大切なことか。
大体、社会に合わせて仮面(という嘘)を被っていると
段々苦しくなってくる。そういうときは童心がない。
自分の心の声を聞いてみればわかる。
「ああしなければならない」「こうしなければならない」
それは外に合わせようと必死になっている「大人の声」だから。
世界が楽しくてしょうがないときはいつも「子どもの声」。
僕は男性だから女性のことはわからないが、
男性が大体社会で苦しくなっているときは男色の強い声(変な意味じゃないですよ)。
心を緩めることができたり、自分の中の幼さだったり間違いを許せることが
できているときは、女色が混じっている。
大体「すべてを受け入れる」のは母ですからね。相場が。
そういう世界でのみ弱音を吐露できる。
が、それは外に探しにいかなくても内に既にある。
この声をどれだけ大切にできるか。


人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/11 16:44

精神の力

自らの意志で在るんだ。
自らの意志で生きるんだ。
秩序のために生きるのではない。
生きなければならないから生きるのではない。
体裁のために生きるのではない。

押さえつけてくるものをはねのけろ。
囚われると頭を上げられなくなる。
胸を張れなくなる。

時間潰しのために生きてるわけじゃない。
罪の償いのために生きてるわけじゃない。
負け犬、逃げた卑怯者と罵られないために死なずに生きてるわけじゃない。
及第点をもらうために生きてるわけじゃない。
認めてもらうために生きてるわけじゃない。

人としてのあるべき姿像に従うために生きてるわけじゃない。
それでは奴隷ではないか。己が観念の。
そう叫んでもいいのだ。
常識に取り合うと叫べなくなる。
だが取り合う必要はないのだ。

向かう先を失くしてしまったから心が動かなくなったのではない。
自ら檻で心を囲ったから動けなくなったのだ。
常識、倫理観、道徳心、罪悪感、義務感、責任感。
それらすべてが伸び伸びと呼吸しようとする心を締め上げる。

・・・・・。
『精神力』を軽視してはいけない。
忍耐力とか根性とか、そんな軽い意味での精神力ではなく。
精神の力。
は、生命の力。
不遇な状態にあるとき「このやろう」と思う力。
それはどんな人にもある。
力の強い弱いで測るのが無粋となるもの。
誰もが等しく持っているもの。
だから尊い。
なるべくその生命の力を押さえつけないように。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/03/23 16:48

人に成る

ここ十年くらい、僕は鬼だった。特に後の5年ほどは。

生まれたときは仏だったのかもしれない。
それが1年また1年と年を重ねるにしたがって、やがて獣が目覚めてきた。
だが同時に親のしつけによってそれはよく制御されていた。

だが一人前とされる年齢に達する頃には
親から与えられたそのリミッターの使用期限が既に差し迫っていた。
リミッターはほどなく機能停止した。

その後制御を失った半獣が獣化に獣化を重ねるのは当然だった。
そのくせその獣は自分こそが人間だと言い放った。
だがその口がもう獣のそれだった。

人になることを願った獣はやがて人の形を得た。
だがその人様の生き物はたった一点でだけ人とは異なっていた。
彼には角がはえていた。
彼は鬼だった。

それが僕だった。

今改めて思う、人とは何か。
人とは仏になろうと悔い改めた鬼のことではないか。
悔い改め、仏になろうと願ったところから
ようやく人間一年目が始まるのではないか。
人間というのはヒトから人に「なる」ものではないか。
その足跡を道というのではないか。

「人に成る」
成人とは奥深い言葉なのだろう。
人間観 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/04 16:46

今日飢えて、明日飢えて

「人間とはどういう存在か」と問うと
「人間とは課された存在である」という答えもあると思う。

例えば、何か自分だけの、または人類共通の使命を果たすために生まれてきたのだ
という神秘的・宗教的(と思われている)なものや、
いや、人間の本態を捉えるとどうもこれは「課されている」としか言いようがない
という哲学的なものもあると思う。

僕も基本的には人間は常に何かに駆り立てられている存在だと思っているが、
最近思うようになったのは
「何にも駆り立てられていない」と思えるのが一番ではないかということ。

駆り立てられるというのは言い換えると飢えているということ。
食事に飢え、愛情に飢え、人間関係に飢え、金に飢え、地位に飢え、名誉に飢え、
いろいろなものに飢えるが、意外なものでは、
安心に飢え、安定に飢え、理想に飢え、きれいなものに飢え、自分に飢えている。

極端だが、「こうありたい」と思うのも飢えだし、
「こういう失敗は二度としない」と思うのも飢えだ。
「きちっとした自分」に飢えている。

ここで言いたいのは、飢えているのは卑しいことだということではなく、
人間とはいつも飢えっぱなしの存在なのだなぁということ。

空腹からくる飢えは、その日の食事にありつけば満たすことができる。
しかし次の日になればまた腹が減る。
よく考えてみれば、
人間は生まれてから死ぬまで毎日腹を空かせている。つまり飢えている。
飢えが満たされるのは「その日」だけであり、
「存在そのもの」としては満たされない。

皮肉なもので、人間が求めているのは「満たされること」なのに、
実態は、永遠に「その途上の存在」なのだ。
飢えを満たしたいという思いが人間を突き動かす原動力なのに、
その切実な願いが叶うことはない。(だからこそ歩いていけるのだが)

本題に戻るが、
人間は常に何かに駆り立てられている存在だが、
その眼中にあるのは自身の「満たされた姿」だけだ。
飢え、つまり何かが不足・欠落している状態は「あってはならないことだ」
という切迫感がある。
この場合は食事よりも「自分の欠点」などに置き換えた方がわかりやすい。
「こんなことができない自分はあってはならない」という切迫感がある。

食事については微妙だが、このアイデンティティの問題に関しては、
「こんな自分では許されない」という思いがある。
誰に許してもらえないのかは、神なのか社会なのか世間なのか自分自身なのか
はっきりしないが、ともかく信仰者も無神論者も等しくそういう思いを持つ。
人間がなぜ自己の欠点を嫌うかというとそれは許されたいという願いからだ。
自分が今ここにあるということが、
「もっともである」「正当である」「意義がある」「必然がある」と思いたいのだ。
その「許された姿」を夢見ていつも飢えている。

だが、飢えというのはつまり自己否定なのではないか。
絶えざる自己否定が人を向上させ進歩させるのは確かだが、
その進歩の道に“軸”がないのはあまりに寂しい。
それに、「人間とは永遠に許されたいと願い続ける(が叶わない)存在なのだ」
と言うのも自分のことながら何かかわいそうに思える。

くどいようだが、
人間の飢えは一応満たされはするがすぐまた飢える。
すると人間の本態は「飢え続ける者」となる。
これをアイデンティティ面でみると
「許されたいと願い続ける者」ということになる。
なぜ僕がこれをかわいそうに感じるかというと、
願いはあくまでも「許されること」だからだ。
でも本態は「許されることはない」。
ここに人間の意志と本態とのズレがある。

許されることを目指して出発した人が
やがて許される可能性があるならそれでいい。
「許されない→許される」という道筋をたどっていい。
しかしこれが許されないとなると、上のものとは別次元で考える必要がある。
『「許されない→許される」を目指して生きている自分』を
上かあるいは下から見る視点が必要になる。
細かいことだが、
その視点を持ち、立場を上(か下)へ移動させるのではなく、
その立場のままその視点の存在を「知る」必要があるということだ。

許し(保証)を求める人に許しを与えてあげるのが救済なのではなく、
「許されない」との自己否定を止めさせてあげるのが救済ではないか。
正確には、止めさせることが不可能でも(止めれば動きがなくなる)、
「許されない」という思いが自己が作り出した幻想であると知らせることが
真の救済ではないか。

救済とか許しを与えるとか知らせるとか言っているが、
これは特定の個人が、というよりも、
どちらかと言えば、神がというニュアンスでのこと。
なので「知らせる」といっても、誰かが知らせたり、
それを聞いて「なるほど、自分の思い込み(*)だったか」と
自分に言い聞かせようとすることを指して言っているのではなくて、
「それは幻想である」と言い切る(神や真理としての)視点が
いわばバックアップとして控えているのだと感じられるかどうか、
ということを指して言っている。


(*)願いは必ず叶い得るという前提で作られる。
それが叶わないということは
願い自体が(これは叶う可能性があるとの)思い込みから作られた
間違ったものであるということ。

後半だいぶはしょった気もするが大体考えているのはこんな感じになる。
人間観 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/10/24 20:17
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